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2006年10月06日
先日、「News 23」を見ていたら、銀座の路地裏の特集をやっていた。華やかな銀座にも細い路地がたくさんあり、そのところどころに本当に小さな神社があったりする。昼の銀座、そして夜の銀座で働く人たちが、たびたびお参りしているという。街角に神社があり、地蔵があり、なんとはなしにそれらを拝むのが、この日本に密かに息づいた神との関わりだと思う。しかし、自分のことしか顧みないような犯罪が多発するのを見るのにつけ、そんなささやかな伝統も少しずつ崩れていくのかというような気がしてならない。
そんなことを考えているときに、ふと本屋で手にとったのが「神殺しの日本 反時代的密語」(梅原猛著、朝日新聞社)であった。「京都学派」の伝統を引き継ぎ、日本という国の哲学を考え続けてきた著者の最近のエッセイ集である。その中で著者はこんなことを書いている。
(ニーチェの言葉を引用して、西洋の近代は神の死と考えたという論理を展開した後で)最近日本でも、動機が金銭の強奪や嫉妬、怨恨ではなく、殺人のための殺人というべきものが起こっている。私は若き日、ニーチェやドストエフスキーのこの思想に深く影響されたが、日本における神殺しについては何らの認識ももっていなかった。しかし日本のことを研究すること五十年にして、最近やっと日本における神殺しの実態を理解することができるようになった。
近代日本において神殺しは二度にわたって行われた。近代日本が最初にとった宗教政策、廃仏毀釈が一度目の神殺しであった。(略)
そこで殺されたのが仏ばかりではない。神もまた殺されたのである。外来の仏と土着の神を共存させたのは主として修験道であるが、この修験道が廃仏毀釈によって禁止され、何万といた修験者が職を失った。この従来の日本を支配した神仏を完全に否定することは、近代日本をつくるために必要欠くべかざることと思われたからである。福沢諭吉のような啓蒙思想家などもこの神々の殺害を手助けしていたことは否定できない。
(そして、神殺しのあとに唯一神=現人神がおかれたと論を展開した後で)
この現人神への信仰にもとづいて作られたのが、教育勅語という新しい道徳であった。教育勅語にはかつての仏教や神道の道徳はほとんど含まれず、現人神への信仰のもとに日本は西洋諸国に追いつき、その挙げ句、アメリカ、イギリスという世界の強国に対してあえて戦争を仕掛け、手痛い敗戦を経験した。
この敗戦によって新しい神道も否定された。現人神そのものが、実は自分は神ではなく人間であると宣言されたことによって、この神も死んだ。(略)
このように考えると、日本は西洋よりもっと徹底的に神仏の殺害を行ったことになる。この神仏の殺害の報いは今徐々に表れているが、以後百年、二百年経つと決定的になるであろう。道徳を失っているのは動機なき殺人を行う青少年のみではない。政治家も官僚も学者も宗教心をさらさらもたず、道徳すらほとんど失いかけているのである。(略)
最近、そのような道徳の崩壊を憂えて、日本の伝統である教育勅語に帰れという声が高まっている。しかし教育勅語はあの第一の神の殺害の後に作られたもので、伝統精神の上ではなくむしろ伝統の破壊の精神の上に立っている。私は、小泉八雲が口をきわめて礼賛した日本人の精神の美しさを取り戻すには、第一の神の殺害以前の日本人の道徳を取り戻さねばならないと思う。
引用がかなり長くなった。
著者の言っていることには、まったくもって共感する。
さらに深めて言うならば、宗教という視点のみではなく、「精神の破壊」という点からすると、現代は第3の精神の破壊が進んでいるのだと思う。それは、徹底した自国文化への自信の喪失と徹底したアメリカ化なのだと思う。戦後一貫して仕組まれてきたものが、バブル崩壊とともに一気に爆発した。
ぼくたちも破壊されたまま、そのままでいいとは誰も思っていない。だからこそ、日本人らしさを取り戻そうという議論がここ10年盛んになされるようになっている。しかし、その議論のほとんどが「道徳性を取り戻す」=戦前回帰的な話になることに、ぼくはずっと違和感を覚えてきた。梅原さんのこの文を読んで、その理由が分かったような気がする。「戦前」とは、「破壊後」の時代だったのだ。
八百万の神の伝統とか、美しい国とかいうが、それを取り戻すには「破壊後」の「戦前」の思想・価値観を見るだけではダメだということだ。教育勅語は確かに規律や秩序という意味では素晴らしいものなのだろうが、それは「破壊後」の価値観でしかない。だとすると、もしかしたらぼくたちが立ち返るべき、一番現在に近い思想は新渡戸稲造の「武士道」あたりなのではないかと思う。「武士道」の中で新渡戸は、日本の伝統的な道徳の規範は武士道にあると主張しているし、去年の年末あたりから話題になった本「国家の品格」でも、日本という国の品格を取り戻すのは武士道回帰だと言っている。
武士道の時代。
江戸時代以前。
もしかしたら、この時代に今の混迷を解決するヒントがあるのかもしれない。鎖国をしている環境でありながらも、日本の国は豊かにやってきた。GDPという概念が当時あったなら、その数値は決して産業革命以前の欧米にひけをとることはなかっただろうし、学問のレベルも非常に高かった。数学などは世界第一級のものがあったし、先物取引が世界で最初にはじまったのは大阪の米市場だというのは有名な話だ。江戸の街は世界最大の人口を有しており、それに耐えるだけの都市システムがあった。ゴミは捨てられず、普通にリサイクルされていたという。教育水準も高く、人々の学ぶ意欲は旺盛で、その後の日本の発展を支えた礎はすべてこの時代にあったといってもよい。
いま必要なのは、教育勅語ではなく、江戸のよかったものを積極的に掘り起こしていく作業であろう。
最近巷で言われる「ロハス」というのも、無意識の中で精神的に江戸回帰をしているのかもしれない。そして、それは八百万の神と普通に暮らしてきた、本当の意味での「美しい国」を取り戻すことなのだと思う。
投稿者 watata : 2006年10月06日 02:05
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